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東京地方裁判所 平成9年(ワ)13709号 判決 1999年5月25日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

中村人知

被告

東京都

右代表者知事

石原慎太郎

右指定代理人

和久井孝太郎

林勝美

西貴久

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は原告に対し、金二七五六万〇六〇六円及びこれに対する平成九年七月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  本件は、東京都公立学校教員として被告に雇用されていた原告が、てんかんという持病のために教諭としての勤務に何らかの支障があったというわけではなく、したがって、被告は原告を他の教諭たちと同等に取り扱うべきであったのにこれを怠り、他の教諭たちと同等の機会及び同等の職場環境を提供しなかったという債務不履行が被告にはあり、仮に原告の持病が他の教諭たちと同等の機会及び同等の職場環境を維持できない支障を来すものであったとしても、被告には持病を有することが勤務に支障を来す程度と合理的に相当する程度の職場環境を提供する義務があるのにこれを怠り、原告の持病の程度から著しくかけ離れた不合理な職場環境を原告に提供したという債務不履行が被告にはあり、または、原告はその持病のために休職を余儀なくされたが、原告が休職するまでの手続の進め方は強引な強要、強制的なものであって、適正な手続に則ったものということはできないのであり、その適正さを著しく欠いた義務違反が被告にはあるとして、被告に対し、右の債務不履行に基づく損害賠償として、原告が休職を余儀なくされていた期間に支払われた賃金と休職をしていなければ支払われたであろう賃金との差額として平成五年八月分から平成八年三月分までの合計が金一一二六万九四二四円、被告の債務不履行がなければ原告は少なくとも平成一〇年三月までは勤務することができたことによる得べかりし賃金の合計として金一七五三万一一八二円、被告の債務不履行によって原告が被った精神的苦痛に対する慰謝料として金五〇〇万円、総計金三三八〇万〇六〇六円から原告が受け取った平成七年八月分から平成九年七月分までの傷病手当の合計金六二四万円を控除した残金二七五六万〇六〇六円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成九年七月一七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

二  前提となる事実

1  原告は、昭和三八年被告に東京都公立学校教員として採用され、同年五月一日から奥多摩町立小河内小学校に助教諭として勤務し、同年六月一六日教諭に昇格し、昭和四一年四月一日武蔵野市立境北小学校に、同年九月一日同市立桜堤小学校に、昭和四七年四月一日同市立第三小学校に、昭和四八年四月一日同市立境南小学校に、昭和六〇年一一月一六日同市立境北小学校に、昭和六二年四月一日同市立関前南小学校(以下「関前南小学校」という。)に、平成元年四月一日同市立大野田小学校(以下「大野田小学校」という。)に、それぞれ異動した(争いがない。)。

2  原告は、てんかんという持病を有しており、原告が大野田小学校に勤務していた平成三年には国立精神センター武蔵病院に通院して薬物療法による治療を受けていた。大野田小学校の馬場孝雄(以下「馬場」という。)校長は同年一一月校長室に原告を呼んで、原告に対し休職するよう求めたが、原告はこれに応じなかった。同校長は同月二七日原告の了解を得て原告が国立精神センター武蔵野(ママ)病院で診察を受けるのに同行し、原告の主治医と面談した(原告が平成三年に通院していた病院名については原告本人。原告の持病であるてんかんに対する治療法については<証拠略>、原告本人。馬場校長が平成三年一一月二七日に原告の通院に同行し、原告の主治医と面談したことについては<証拠略>。その余は争いがない。)。

3  原告は馬場校長から東京都教職員相談室で診察を受けるよう言われたので、平成四年三月六日同相談室において松沢病院の新川医師の診察を受けた。原告は同年四月以降大野田小学校において学級担任を受け持たされていない(東京都教職員相談室で原告を診察した医師の氏名については<証拠略>、原告本人。その余は争いがない。)。

4  東京都教育委員会(以下「都教委」という。)は、平成五年一月二〇日付けの受診通知と題する書面(<証拠略>)によって、原告に対し、東京都立府中療育センターにおいて同月二五日午後一時に同センター精神科の医師である西牟田議康(以下「西牟田」という。)の診察を受けるよう通知した。都教委が原告に対し右のとおり診察を受けるよう求めたのは原告の健康状態を把握する必要があったからである。職員の分限に関する条例は地方公務員法二八条二項一号により休職させるときは指定医をしてあらかじめ診断を行わせることとしており、西牟田医師は都教委が職員の分限に関する条例(昭和二六年九月二〇日条例第八五号)三条二項に基づいて指定した医師であった。原告は平成五年一月二五日東京都立府中療育センターにおいて西牟田医師の診察を受け、側頭葉てんかんにより一年間の休職を要すると診断された。原告が東京都立府中療育センターで診察を受ける際に武蔵野市教育委員会の職員及び東京都教育庁多摩教育事務所の職員各一名並びに大野田小学校教頭の計三名が原告の了解を得て原告に同行した。都教委は原告の承諾を得て西牟田医師の診断書(<証拠略>)を入手し、この診断書に基づいて原告を病気欠勤として取り扱うことにし、原告は同月二七日から同年七月二五日まで大野田小学校を病気欠勤した(受診通知の内容、方法及び日付並びに受診通知に係る診察の目的については<証拠略>。西牟田医師が都教委が職員の分限に関する条例三条二項に基づく指定医であること、原告が西牟田医師の診察を受ける際に同行した者の人数及び素性については弁論の全趣旨(ただし、右の外に同行した者がいるかどうかについては後記第三の一を参照されたい。)。都教委が原告の承諾を得て西牟田医師の診断書を入手したことについては<証拠略>。都教委が西牟田医師の診断結果に基づいて原告を休職扱いすることにしたことについては<証拠略>。その余は争いがない。)。

5  原告は、都教委に対し、平成五年七月一五日付けの休職願(<証拠略>)を提出して休職更新の措置を求めた。そこで、都教委は、同月二六日付けの発令通知書(<証拠略>)によって、原告に対し、地方公務員法二八条二項一号に基づいて平成六年一月二四日まで休職を命じるとともに休職期間中の給料、扶養手当、調整手当及び住居手当についてはそれぞれ従前の金額の一〇〇分の八〇を支給する旨の分限休職処分を発令した(原告が都教委に対し平成五年七月一五日付けの休職願を提出して休職更新の措置を求めたことについては<証拠略>。発令された分限休職処分の内容及び通知の方法については<証拠略>。その余は争いがない。)。

6  都教委は、平成六年一月一〇日付けの受診通知と題する書面(<証拠略>)によって、原告に対し、東京都立府中療育センターにおいて同月一九日午後一時に西牟田医師の診察を受けるよう通知した。都教委が原告に対し右のとおり診察を受けるよう求めたのは原告の健康状態を把握する必要があったからである。原告は同月一九日東京都立府中療育センターにおいて西牟田医師の診察を受け、側頭葉てんかんにより一年間の休職を要すると診断され、都教委は原告の承諾を得て西牟田医師の診断書(<証拠略>)を入手した。ところが、原告は右の診断結果を受け入れず、休職願の提出を拒否したので、都教委は、同月二五日付けの発令通知書(<証拠略>)によって、原告に対し、休職期間を平成七年一月二四日まで更新する旨の分限休職処分を発令した。原告は、同年三月二五日、東京都人事委員会に対し、右の処分を不服として地方公務員法四九条の二に基づいて審査請求を行ったが、同年四月二五日この審査請求を取り下げた(受診通知の内容、方法及び日付並びに受診通知に係る診察の目的については<証拠略>。都教委が原告の承諾を得て西牟田医師の診断書を入手したことについては<証拠略>、弁論の全趣旨。発令された分限休職処分の内容及び通知の方法については<証拠略>。その余は争いがない。)。

7  都教委は、同年一二月二七日付けの受診通知と題する書面(<証拠略>)によって、原告に対し、東京都立府中療育センターにおいて平成七年一月一〇日午後二時三〇分に西牟田医師の診察を受けるよう通知した。都教委が原告に対し右のとおり診察を受けるよう求めたのは原告の健康状態を把握して復職又は休職の更新を判定する必要があったからである。原告は、同月一〇日、東京都立府中療育センターにおいて西牟田医師の診察を受け、側頭葉てんかんにより六か月間の休職を要すると診断され、都教委は原告の承諾を得て西牟田医師の診断書(<証拠略>)を入手した。原告は、同月二三日付けの休職願(<証拠略>)を提出して休職更新の措置を求めた。そこで、都教委は、同月二五日付けの発令通知書(<証拠略>)によって、原告に対し、休職期間を同年七月二四日まで更新する旨の依願休職処分を発令した。原告は、同年三月二三日、東京都人事委員会に対し、右の休職願は強迫によって作成させられたものであるとして右の処分の取消しを求めて審査請求を行ったが、同委員会は、同年一二月二〇日、原告の休職願が強迫によって作成されたものとは認められず、右の処分を承認する旨の裁決をした(受診通知の内容、方法及び日付並びに受診通知に係る診察の目的については<証拠略>。都教委が原告の承諾を得て西牟田医師の診断書を入手したことについては<証拠略>。原告が平成七年一月二三日付けの休職願を提出して休職更新の措置を求めたことについては<証拠略>。発令された依願休職処分の内容及び通知の方法については<証拠略>。その余は争いがない。)。

8  都教委は、同年七月一一日付けの受診通知と題する書面(<証拠略>)によって、原告に対し、東京都立府中療育センターにおいて同月一八日午後一時三〇分に西牟田医師の診察を受けるよう通知した。都教委が原告に対し右のとおり診察を受けるよう求めたのは原告の健康状態を把握して復職又は休職の更新を判定する必要があったからである。原告は、同月一八日、東京都立府中療育センターにおいて西牟田医師の診察を受け、側頭葉てんかんにより六か月間の休職を要すると診断され、都教委は原告の承諾を得て西牟田医師の診断書(<証拠略>)を入手した。都教委は、同月二五日付けの発令通知書(<証拠略>)によって、原告に対し、休職期間を平成八年一月二四日まで更新するが、平成七年七月二六日以降給与を支給しない旨の処分を発令した(受診通知の内容及び方法並びに受診通知に係る診察の目的については<証拠略>、受診通知の日付については弁論の全趣旨。都教委が原告の承諾を得て西牟田医師の診断書を入手したことについては<証拠略>、弁論の全趣旨。発令された分限休職処分の内容及び通知の方法については<証拠略>。その余は争いがない。)。

9  都教委は、平成七年一二月一一日付けの受診通知と題する書面(<証拠略>)によって、原告に対し、東京都立府中療育センターにおいて同月二〇日午後一時三〇分に西牟田医師の診察を受けるよう通知した。都教委が原告に対し右のとおり診察を受けるよう求めたのは原告の健康状態を把握して復職又は休職の更新を判定する必要があったからである。原告は、同月二〇日、東京都立府中療育センターにおいて西牟田医師の診察を受け、側頭葉てんかんにより平成八年七月二五日まで休職を要すると診断され、都教委は原告の承諾を得て西牟田医師の診断書(<証拠略>)を入手した。原告は、同月二二日付けの休職願(<証拠略>)を提出して休職更新の措置を求めた。そこで、都教委は、同月二五日付けの発令通知書(<証拠略>)によって、原告に対し、休職期間を同年七月二五日まで更新する旨の処分を発令した(受診通知の内容、方法及び日付並びに受診通知に係る診察の目的については<証拠略>。原告が平成八年一月二二日付けの休職願を提出して休職更新の措置を求めたことについては<証拠略>。都教委が原告の承諾を得て西牟田医師の診断書を入手したことについては<証拠略>、弁論の全趣旨。発令された処分の内容及び通知の方法については<証拠略>。その余は争いがない。)。

10  原告は平成八年三月三一日大野田小学校を依願退職した(争いがない。)。

三  争点

1  被告による債務不履行の有無について

(一) 原告の主張

(1) 原告は、てんかんという持病を有するが、てんかんの中でも最も軽微であり、年に何回か発作的に意識喪失などを起こすだけで、その意識喪失の時間も一ないし二分間程度である。発作の症状を起こしやすいのは精神の緊張が解けようとする一瞬であり、したがって、精神を緊張させている授業中に発作を起こしたことはなく、発作を起こすのは校内研究日や武蔵野教育研究会が終わって廊下に出たときや階段を下りようとしたときなどであった。原告は被告の主張するほどに頻繁にてんかんの発作を起こしたことはない。

(2) 原告は、このようにその持病のために勤務に何らかの支障があったというわけではなかったのであるから、被告は大野田小学校において原告を他の教諭たちと同等に取り扱うべきであったのにこれを怠り、他の教諭たちと同等の機会及び同等の職場環境を提供しなかったという債務不履行がある。

すなわち、原告は平成元年四月から二年間は大野田小学校における勤務において原告の教育に対する情熱を惜しみなく出せる職場環境であったが、平成三年四月以降は原告の教育に対する情熱を惜しみなく出せる職場環境ではなくなった。例えば、

ア 原告は、学校が各教科の教育に責任を持ち、家に帰って塾に通うような勉強の仕方をしなくても、自分でできるようにするべく机に向かう習慣を付けさせようと絶えず教材を作り、宿題の採点・詳しい評価を心がけて教育に臨んでいたため、他の教諭たちがさっさと帰ってしまうのに、原告は午後四時をすぎても学校に残って仕事をしなければならないような状況にあったが、全職員が帰らなければ自分も帰れない教頭から、帰りが遅くなるのは仕事がのろいからだと批判された。

イ 原告は学校の練習だけでは不十分と思われる漢字の練習や正確さ、早さを身につけたい計算のプリントはできるだけ作って家庭でも練習できるようにしていたが、授業を一度も見に来たことがない校長から国語の授業で漢字ばかり練習していると非難された。

ウ 原告は平成四年三月六日東京都教職員相談室において松沢病院の新川医師の診察を受け、休職の必要はないと診断されたにもかかわらず、同年四月原告は疲れているという理由で学級担任を持たされなかった。そして、原告は、右同月以降一週間ずつ、花壇の草取り、廊下の掃除、傘立ての掃除、体育館の掃除、体育倉庫の雨水のかき出し、天窓ふき、印刷、休暇中の教諭のクラスの補教、妊娠した教諭のクラスの体育の補教などを内容とする職務命令を受け、これらの仕事を行ってきたが、<1>生徒からは「先生は何でこんなことばかりしているの。」などと声をかけられた。<2>花壇の草取りをしろと言われて原告が花壇の後ろの木の手入れをしていると、教頭から「そんな仕事は言っていない。」と怒鳴られた。<3>原告が流しの上の天窓ふきをしていると、用務員から「先生だって勝手に教室に入られたら嫌でしょう。私の仕事場に勝手に入らないでください。」と言われた。<4>馬場校長は「いつ発作が起きるかわからない。」と言いながら、発作が起きればひっくり返るような高いところでの危険な作業を原告に命じた。<5>馬場校長は「発作を起こしたら体育指導などできないであろう。」と言っておきながら、妊娠した教諭のクラスの体育の補教を原告に命じており、そこには一貫した姿勢がない。

エ 原告は平成四年に教職員で行う忘年会に参加させてもらえなかった。

これらの行為を見れば、他に説明できる合理的な理由はなく、ただ単に原告に持病があるというだけの理由で他の教諭と差別し、原告が十分職責を全うできるような満足な職場を提供しなかったばかりでなく、休職せざるを得ない状況に追い込んだのである。

(3)ア(ア) 仮に原告の持病が他の教諭たちと同等の機会及び同等の職場環境を維持できない支障を来すものであったとしても、被告には持病を有することが勤務に支障を来す程度と合理的に相当する程度の職場環境を提供する義務があるところ、右(2)ア及びイのとおり原告は持病があったにもかかわらず、他の教諭と全く変わらず教育指導することができたのであるから、原告の教育に対する情熱を惜しみなく出せる職場環境を整えるべきであったのに、右(2)ウ及びエによれば、原告に提供された職場環境は原告の持病から著しくかけ離れた不合理な職場環境である。

(イ) 仮に被告が主張する程度の発作が原告に起きたとしても、平成四年度及び平成五年度には、次のような職場を原告に提供すべきであった。

<ア> 疲れているのであれば、教育委員会で勤務(資料の整理など)をしながら、現場復帰の時期を見る。

<イ> 図書室での貸出しなどの事務、資料整理をしながら図書の授業を任せる。

<ウ> 図工や書道など特殊教科の担任をする。

<エ> 特殊学級(身障学級や病弱児学校(ママ)など)の担任にする。これは複数の教諭で児童を見ているため、仮に発作が生じても補充することができる。

このような職場を提供されれば、原告は何も病気休職などの措置をしなくとも、持病を抱えたままで十分にその職責を果たしていけたのであって、原告の教育にかける情熱を生かそうとしないで、それを排除する方向で処置されたのである。

イ 原告は平成七年一月西牟田医師から復職可能と診断され、原告が職場復帰を強く望んだにもかかわらず、原告に職場復帰は認められなかった。

ウ このように、被告は原告の持病に見合う程度の職場環境を原告に提供するという債務を履行していなかった。

(4) 原告はその持病のために休職を余儀なくされたが、原告が休職するまでの手続の進め方は、次のアないしケのとおり、強引な強要、強制的なものであって、適正な手続に則ったものということはできないのであり、その適正さを著しく欠いた義務違反がある。

ア 原告は、平成三年一一月二三日、教頭及び当時原告が担当していた学年と同じ学年を担当していた教諭三名が居並ぶ前で、馬場校長から、「疲れているから休職しろ」と言われた。しかし、「疲れているから休職しろ」と言うためには合理的な正当な理由がなければならないのであり、例えば、原告の昭和六二年四月から平成元年三月までの関前南小学校での勤務状態及び同年四月から平成三年一一月までの大野田小学校での勤務状態が児童ひいては学校教育にどのような影響を与えたのか、他の教諭と比較してその勤務状態が著しく劣っていたため休職しなければならないほど学校教育に著しく影響を与えていたかについて明らかにされなければならないのであるが、馬場校長は「疲れているから休職しろ」と言うばかりで、原告が休職しなければならない理由について全く説明しなかった。原告の昭和六二年四月から平成元年三月までの関前南小学校での勤務状態及び同年四月から平成三年一一月までの大野田小学校での勤務状態は正常であり、他の教諭と比較しても何ら変わるところはなかった。したがって、「疲れているから休職しろ」という馬場校長の言動は不平等な取扱いがなかったとはいえない。

なお、教頭はその翌日原告に対し封筒をそっぽを向いたまま放り投げていった。その後原告は一〇回ぐらい校長室に呼ばれて馬場校長から休職するよう言われたが、その理由は「疲れている」ということだけであり、他に納得できる理由はなかった。

イ 原告が平成四年三月六日東京都教職員相談室で松沢病院の新川医師の診察を受けた際の同医師の診断の結果は「休職の必要がない」ということであったのに、原告は同年四月以降学級担任から外された。しかし、新川医師が休職の必要がないと診断している以上、原告を学級担任から外すためには合理的な正当な理由がなければならないのであり、例えば、原告が担任を外されなければならない状態であったか、原告のどのような症状、勤務状態、言動が原告を学級担任から外すことの原因となったのかについて明らかにされなければならないのであるが、何らの説明もなかったのであり、何らの合理的な理由もなく担任を外したことは不平等な取扱いがされなかったとはいえない。

ウ 原告が平成五年一月二五日東京都立府中療育センターで西牟田医師の診察を受けた際に教育委員会から三名及び大野田小学校教頭の計四名が受診室に同席し、医師の言動を見張っているという雰囲気であった。

エ 原告は平成六年一月一九日東京都立府中療育センターで西牟田医師の診察を受け、休職を要すると診断されたが、原告の主治医の診断書には「休職を要する」とは書かれておらず、納得できる休職理由がなかったので、休職願の提出をしなかったところ、分限休職処分を受けた。

オ 原告の主治医が同年七月に原告を診察した際の診断結果を記載した診断書には「復職可能」と書かれていたので、原告は「休職願」を都教委に提出しなかったところ、分限処分となった。

カ 原告は平成七年一月その主治医である東京医科大学病院精神神経科の小穴康功(以下「小穴」という。)医師から復職可能と診断されたにもかかわらず、原告が右同月東京都立府中療育センターで西牟田医師の診察を受けたところ、休職を要すると診断された。このように診断結果が異なるのは、原告の持病は緊張させることが発作を起こす原因になることが多いところ、受診室に教頭外四名が同席しているので、原告が右の同席者に対する敵対意識から心身ともに緊張し、西牟田医師と心穏やかにした対話などできないためである。西牟田医師が「一方的な理解のため説得がきわめて困難な状態にある」と診断書に記載しているのもそのせいである。教頭外四名の同席者はいわば原告の診断が正常にできないような行為をしているのである。原告の病気の診断は日常生活(学校での生活も含めて)から判断されるべきであるが、指定医は原告の日常生活を知らないのであるから、受診室にいる同席者に対する敵対意識から心身ともに緊張して心穏やかに対話ができないために誤った診断がされかねない上、針小棒大な事実の報告や事実と異なる報告などがされれば、それによって、誤った診断がされかねないのである。このように西牟田医師の診察は事実上強制されたものである。

キ 西牟田医師は原告を休職させる理由がなかったので、三か月ないし半年くらい休職の形で出勤して復職訓練をするよう診断した。そこで、原告は都教委に対し休職願を提出せずに「休職しろと言うのなら分限休職にしてくれ。」と言ったところ、東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が同月二三日やけどで警察病院に入院中であった原告を訪ね、原告に対し休職願の提出を求めた。原告が提出を拒否すると、原告の実兄である甲野一郎を病院に呼び寄せて強引に提出を迫った。何らの関係もない実兄一郎は非常なショックを受けて倒れ、しばらく病床に伏した後、同年死亡した。職員の分限に関する条例は地方公務員法二八条二項一号により休職させるときは指定医をしてあらかじめ診断を行わせることとしているので、被告は西牟田医師の診断に基づいて原告を休職させることができるのであって、原告が休職願を提出するか否かは処分事由の告知をしなければならないかどうかに影響するだけである。このように被告は診断書に基づきこれを根拠として処分することができるにもかかわらず、男性七名という多数で原告が入院中の病院に押し掛けた上、実兄一郎まで呼び寄せて休職願を書かせたのは強要以外の何ものでもないのであって、その手続は適法かつ適正の域を著しく逸脱している。

ク 西牟田医師は平成七年一月の診察の際に原告に対し「家で療養しなさい、という意味での休職ではなく、校長先生の指導の下コミュニケーションをはからなければならないが、それもプロセスというものがあるので、そのプロセスを踏むだけである。」と言ったが、そのニュアンスは「十分に復職可能であるが、手続上すぐに復職することができないので」というものであり、そこで三か月ないし半年くらい休職の形で復職訓練をするようにという診断になったのである。ところが、復職訓練が始まる様子がなかったので、原告は同年四月二二日人事委員会に訴えたところ、ようやく同年五月二二日から一か月間復職訓練が行われた。初めの五日間は室内の片付け、整理などの作業をし、その後は授業を行ったが、授業については何ら問題はなかった。授業に対する批判はせいぜい「鳥という字の第一画が長すぎる。」などといった程度の批判であって、原告の授業の揚げ足を取るようなものにすぎなかった。しかし、原告の復職は認められなかった。復職訓練の結果、原告が十分授業に耐えられ復職が可能であることが判明していたにもかかわらず、そのことを原告が同年七月一八日東京都立府中療育センターにおいて西牟田医師の診察を受けた際に原告の診察に同行してきた教育委員会などの職員は殊更に説明しなかったのである。このとき西牟田医師は「職場訓練をしても校長が『来ても困る。』と言えば、どうしようもないのであるから従うしかない。」と言っていた。このような状況からすれば、指定医の診断に基づいて原告の休職期間を決めたからといって、適法かつ適正な手続の下で処分がされたとはいえない。

ケ 原告は、東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が平成七年一月二三日原告に「休職願」を提出させるために原告がやけどで入院している警察病院まで押し掛け、原告が提出を拒否すると、実兄まで呼び寄せて署名、捺印を迫るやり方に疲れたこと、校長と対話したテープや担任を外されたときに出された職務内容の予定表、勤務命令、日記帳、歌のテープなどが盗まれたことで、もういじめられるのは嫌だ、辞めようという気持ちになって退職したのである。

(5) 原告は、次のアないしカのとおり同僚をはじめとする陰湿な嫌がらせによって休職ないし退職を余儀なくされたのである。

ア 原告は、平成四年八月新潟の少年鑑別所と佐渡史跡見学の管外出張について馬場校長に見学依頼書を書いてもらって出張したにもかかわらず、出張旅費の支給がなかった。

イ 原告は、平成三年に国語、平成四年に生活科について、それぞれ多摩研修会で研修を終了したにもかかわらず、校長は終了証を出さなかった。

ウ 原告は仕上げた印刷物を段ボールの箱に入れて棚の上に置いておいたのに、教頭から風邪で休んでいた原告に「印刷物がない。」という電話が架かってきたので、原告は学校まで出向かなければならなかった。

エ 原告はバスが遅れるため二、三分職員室に入るのが遅れるときがあった。原告はバスが遅れたのでと言い、後でバス会社の証明をもらったにもかかわらず、教頭は「あなたは駄目だ。」と言って出勤簿に遅刻印を押した。

オ 原告は平成五年三月かつて教えたことがある児童が卒業することになり、記念文集を作成することになった。この記念文集は毎年卒業時の記念として作成されているもので、原告は何か一言書いてほしいと言われたので原稿を書いたが、その原稿は記念文集には載らず没になったばかりか、記念文集の配布もうけられなかった。

カ 原告は、桜堤小学校に勤務しているときに、同僚から原告が受け持っているクラスの父母に持病のことを言いふらされ教育委員会に訴えられたため、教育長が困って市の教育委員会に三年間勤めたことがある。

(二) 被告の主張

(1) 原告の平成元年度以降の勤務状況は、次のとおりである。

ア 原告は、平成元年度は二学年の学級担任を、平成二年度は四学年の学級担任を、平成三年度は二学年の学級担任を、それぞれ担当したが、しばしばてんかんの発作を起こし、職務に支障を来した。このようなことから教諭や保護者の原告に対する評判は芳しいものではなかった。

イ 平成三年度に入ると、原告のてんかんによる発作と事後の異常な行動が著しく顕在化し、馬場校長が確認できたものだけでも一四件にのぼり、校務中においても月に二、三度発作を起こし、時にそのために負傷するなどした。発作後に明らかな幻覚症状が見られるようになったのも平成三年度に入ってからである。

(2) 被告が大野田小学校において原告を他の教諭たちと同等に取り扱うべき義務を負っていたこと、被告に他の教諭たちと同等の機会及び同等の職場環境を提供しなかったという債務不履行があることは争う。原告の平成三年四月以降の職場環境として原告が主張するアのうち子供の教育における原告の臨み方は知らず、その余は否認する。イは否認する。ウのうち原告は平成四年三月六日東京都教職員相談室において松沢病院の新川医師の診察を受けたこと、原告は同年四月以降学級担任を持たされなかったこと、<5>のうち馬場校長が妊娠した教諭のクラスの体育の補教を原告に命じたことは認め、<1>ないし<4>は不知ないし否認し、新川医師の診断結果は知らない。他に説明できる合理的な理由はなく、ただ単に原告に持病があるというだけの理由で他の教諭と差別し、原告が十分職責を全うできるような満足な職場を提供しなかったばかりでなく、休職せざるを得ない状況に追い込んだことは否認する。

平成四年四月当初の原告の職務内容は、<1>低学年の補教、<2>教頭、教務主任の事務補助、<3>むらさき学級見学(週三回、月、水、金)、<4>校務分掌では保健部、庶務部、生活科、心身障害者委員会に所属、<5>環境整備であったが、原告はいずれの職務も果たさず、または職務を果たしても不十分であり、教頭や他の教諭が補完しなければならなかった。

(3) 被告には持病を有することが勤務に支障を来す程度と合理的に相当する程度の職場環境を提供する義務があること、原告に提供された職場環境は原告の持病から著しくかけ離れた不合理な職場環境であることは争う。

(4) 原告が休職するまでの手続の進め方として原告が主張するアないしケについての被告の主張は次のとおりであり、原告が休職するまでの手続の進め方が強引な強要、強制的なものであって、適正な手続に則ったものということはできず、その適正さを著しく欠いた義務違反があることは争う。

ア 平成三年度に入ってからの原告の発作の態様や原告の発言を見て、馬場校長は平成三年一一月原告が通院している国立精神センター武蔵病院の主治医に相談するとともに原告に対し休職を勧めたのである。馬場校長は平成三年一一月以降も原告との間で休職について話合いを持とうとしたが、原告は興奮して感情的になり、話合いができるような状況ではなかった。原告は、平成四年二月一九日には「あなたたちとは話をしません。教育長に話してきます。」と言って学校を飛び出すということがあり、また、証拠にとると言ってラジオカセットを持ち込み、話合いに応じようとする姿勢が見られなかった。

イ 原告が平成四年三月六日東京都教職員相談室で松沢病院の新川医師の診察を受けた際の同医師の診断の結果については知らない。教職員相談室は職員の相談に応じるためのものであり、その相談結果については原則として本人以外知ることはできない。原告が同年四月以降学級担任を外されたのは、馬場校長が他の教諭の協力を得て学校運営を進めていくことも限界であると判断したためである。

ウ 原告が平成五年一月二五日東京都立府中療育センターで西牟田医師の診察を受けに行く際に大野田小学校教頭外二名が同行したが、受診室に同席してはいない。

エ 原告が平成六年一月一九日に東京都立府中療育センターで西牟田医師の診察を受けた前後に原告の主治医が作成した診断書には「休職を要する」とは書かれていなかったことは知らない。

オ 原告の主治医が同年七月に原告を診察した際の診断結果を記載した診断書には「復職可能」と書かれていたことは知らない。

カ 原告が平成七年一月その主治医である東京医科大学病院精神神経科の小穴医師から復職可能と診断されたことは知らない。原告が右同月東京都立府中療育センターで西牟田医師の診断を受けていた受診室に教頭外四名が同席していたことは否認する。

キ 東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が同月二三日警察病院に入院中であった原告を訪ねたこと、原告の実兄が原告を説得するために病院に来たこと、職員の分限に関する条例は地方公務員法二八条二項一号により休職させるときは指定医をしてあらかじめ診断を行わせることとしているので、被告は西牟田医師の診断に基づいて原告を休職させることができるのであって、原告が休職願を提出するか否かは処分事由の告知をしなければならないかどうかに影響するだけであることは認め、原告の実兄が病床に伏し、同年死亡したことは知らない。西牟田医師が原告を休職させる理由がなかったこと、西牟田医師がは(ママ)三か月ないし半年くらい休職の形で出勤して復職訓練をするよう診断したこと、被告は診断書に基づきこれを根拠として処分することができるにもかかわらず、男性七名という多数で原告が入院中の病院に押し掛けた上、実兄一郎まで呼び寄せて休職願を書かせたのは強要以外の何ものでもないことは否認する。

ク 西牟田医師の平成七年一月の診察の際の発言及び同年七月一八日の診察の際の発言は知らない。原告が同年五月二二日から一か月間復職訓練を行ったこと、原告の復職が認められなかったことは認め、復職訓練が始まったのは原告が人事委員会に訴えたためであること、復職訓練に何の問題もなかったことは否認する。指定医の診断に基づいて原告の休職期間を決めたからといって、適法かつ適正な手続の下で処分がされたとはいえないことは争う。

ケ 東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が平成七年一月二三日警察病院まで押し掛けたことは否認する。

(5) 原告が同僚をはじめとする陰湿な嫌がらせによって休職ないし退職を余儀なくされたと主張する点のうちアないしオは不知ないし否認し、カのうち原告が武蔵野市桜堤小学校に勤務している間に一時期武蔵野市の教育委員会に勤務していたことは認め、その勤務した期間が三年間であることは否認する。

2  損害額について

第三当裁判所の判断

一  争点1(被告による債務不履行の有無)について

1  前記第二の二1、3及び4の各事実、次に掲げる争いのない事実、証拠(<証拠略>(ただし、次の認定に反する部分を除く。)、<証拠略>(ただし、次の認定に反する部分を除く。)、原告本人(ただし、次の認定に反する部分を除く。))及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 原告が大野田小学校に異動する前に勤務していた関前南小学校ではてんかんの発作は薬物療法によってよくコントロールされていた。ところが、平成元年四月に大野田小学校に異動した原告は、平成元年度は第二学年の学級担任を受け持ったが、授業参観日であった平成元年六月一〇日に授業の直前にてんかんの発作を起こし保健室に担ぎ込まれたので、授業を行うことができなかった(原告が平成元年四月一日関前南小学校から大野田小学校に異動したことは前記第二の二1。原告が授業参観日にてんかんの発作を起こしたことについては争いがなく、平成元年度に学級担任を受け持っていた学年、授業参観日が平成元年六月一〇日であることについては弁論の全趣旨。その余は<証拠略>、原告本人)。

(二) 原告は、平成二年度は第四学年の学級担任を受け持ったが、平成二年四月一七日体育科の指導のために体操着に着替えに更衣室に行き、そこでてんかんの発作を起こした。発作はすぐに治まったが、体育の指導ができる状態ではなかったので、他の教科に変更した。原告は同年九月二〇日てんかんの発作を起こし保健室に担ぎ込まれた。原告は第四学年の社会科の校外学習が行われた平成三年二月七日に校外学習で行った築地市場で一回、船の科学博物館で一回、それぞれてんかんの発作を起こした。発作後の原告の健康状態はすこぶる悪く、とても児童の引率や校外学習で行った先々での指導ができる状態ではなかったので、嘱託員が原告が学級担任をしていたクラスの児童を引率した。校外学習を終えて引率の教諭とともに学校に戻った第四学年の児童は生活指導と翌日の学習の予定を知らせる解散会に参加し、馬場校長も解散会に立ち会っていたが、その最中に馬場校長のすぐ側に立っていた原告がてんかんの発作を起こして倒れた。原告の意識が戻るまでに約五分間かかり、原告は意識が戻った後も自力では立ち上がることができず、二人の同僚が肩を貸して保健室に連れて行った(原告が平成二年四月一七日にてんかんの発作を起こしたことについては争いがなく、原告が同年九月二〇日てんかんの発作を起こし保健室に担ぎ込まれたことについては弁論の全趣旨、その余は<証拠略>)。

(三) 原告は、平成三年度は第二学年の学級担任を受け持ったが、平成三年四月八日(月曜日)午後四時ころ教材の準備中に一〇数えるほどの短時間であったが、てんかんの発作を起こした。原告は同年五月七日(火曜日)午後五時一八分てんかんの発作を起こし、男性教諭の机の上の紙を丸め、こすり始めた。これを見ていた教頭が側に行って紙を丸めてこすることをやめるよう言い聞かせたところ、原告は「どうして」と答えた。この答えを聞いた教頭は、原告が自分の机と他人の机の区別がつかないでいると思われたので、原告を保健室に運んだ。原告が(ママ)保健室に運んだときには原告が発作を起こしてから一分ほど経っていた。原告は勉強会に参加しているが、同年六月六日(木曜日)午後五時ころその勉強会の最中にてんかんの発作を起こした。原告は震えたり手をこすったりし、回りにいた者が原告を座らせ落ち着かせたところ、一〇分ほどで原告の発作は治まった。原告は同年七月一八日(木曜日)午後二時ころ階段でてんかんの発作を起こして倒れたが、介抱された後に勤務に就いた。原告は右同日午後四時ころ再び階段でてんかんの発作を起こして倒れた。原告は同月一九日(金曜日)午後四時二〇分職員会議中にてんかんの発作を起こし、ウーウーとうなり始めた。隣にいた教諭が原告の背中をたたくと、原告は立ち上がり、突然何の脈絡もなく全員に向かって「残さず食べなきゃ駄目じゃない。」と言った。このときの原告の発作は五分ほどで治まった。原告は同年九月三日(火曜日)に行われた遠足実地踏査に参加したが、昭和記念公園でバスに乗ろうとしていた右同日午後四時二〇分に同公園の出口でてんかんの発作を起こし、フラフラとよろめいた。原告の顔面は蒼白であり、その場で一〇分ほど休ませた後にバスに乗り込んだ。原告は同月二七日(金曜日)午後四時三〇分校舎入り口の階段でてんかんの発作を起こし、階段から転げ落ちて左半身を打ち、頭部も打撲して階段で大の字にひっくり返った。原告は一〇分ほど意識不明となり、原告の意識が戻った後に原告を保健室に運んで着替えさせたが、左半身に大きく擦過傷を負った。原告が頭部を打撲したことを心配した同学年の教諭が頭部の治療をするよう強く勧めた。原告は当初は発作の後で病院に行っても何かよい治療方法があるわけではないので病院に行く必要はないと言っていたが、結局は右の教諭の勧めに従って田中脳神経外科病院に行き、手当を受けた。原告は同年一〇月二四日(木曜日)午後五時京王ストア駐車場で降車する際にてんかんの発作を起こし、「はい、並びなさい。」と言った。一緒にいた同僚が原告の手をつなぐと、手を握りしめてきた。そのときの原告は顔面蒼白であり、動けなくなったが、七分ほどで発作は治まった。原告は同月三〇日(火曜日)午後六時五〇分退勤しようと校庭を横切っているときにてんかんの発作を起こして転倒した。校庭ではサッカークラブに所属している児童が保護者の立会いの下にサッカーの練習をしていた。原告は転倒した原告を介抱していた同僚に対し、「職員室に行きましょう。」とか、「大丈夫」とか、「あの子たちはなぜ残っているの」とか、「おかしいじゃない。」などと言っており、その発言の内容からすれば、原告は正気ではないように思われたが、そのような状態は五分ほどで消失したので、職員室に戻って休んだ。原告は同年一一月二日(土曜日)午後三時四〇分に学年の作業中にてんかんの発作を起こし、座り込んでしまった。原告は配膳台を握ったまま離さなかったり、角材を持ってフラフラしたり、左足がけいれんしたりしていた。その後午後六時ころまで原告の挙動不審な行動が続いた。原告は同月一八日(月曜日)午後二時三〇分腹痛のため約一〇分間右脇腹を押さえたままうずくまり、顔面蒼白で意識がなかった。原告は同月二七日(水曜日)午後三時二〇分てんかんの発作を起こし、突然お茶をこぼし始め、自分が何をしているかわからないようであり、そのような状態が約一〇分間続いた。原告は同年一二月二四日(火曜日)午後五時三〇分てんかんの発作を起こし、通知表を持ってうなり始めるとともに引きつけを起こした。同学年の教諭が原告が持っている書類を取ろうとしたが、取れなかった。そのような状態が約一〇分間続いた。原告は同月二五日(水曜日)に同学年の教諭と昼食をとっているときにてんかんの発作を起こし、うなり始め、スパゲッティを少し吐いた(<証拠略>)。

(四) 平成三年度に入って原告の病状が進んできていると思っていた馬場校長は平成三年一一月校長室に原告を呼んで疲れているから休職するよう求めたが、原告は、てんかんは病気ではないし、自分は教諭としての職務をきちんと果たしていると考えていたので、馬場校長の求めに応じるつもりはなく、これを拒否した。馬場校長は原告の主治医に原告の病状などを聞いた上で原告の休職の可否を相談してみることにし、原告に対し、同人が国立精神センター武蔵病院を受診する際に自分を同行させてほしいと申し入れたところ、原告は主治医から馬場校長に対し原告の病状を説明してもらい、原告の病状を馬場校長に理解してもらおうと考えて、原告が国立精神センター武蔵病院を受診する際に馬場校長が同行することを了解した。原告と馬場校長は同月二七日国立精神センター武蔵病院を訪ね、馬場校長は原告と一緒に原告の主治医と会い、学校における原告の行状について説明した。原告は主治医と面談する際には原告が起こしたてんかんの発作について報告していたが、原告は自分の記憶にあるてんかんの発作についてしか報告しておらず、原告の記憶としては平成三年に入ってからてんかんの発作が殊更に増えたというわけではなかったので、原告の主治医は原告の報告を聞いて原告が平成三年に起こしたてんかんの発作の回数は平成二年に起こしたてんかんの発作の回数と大差ないと考えていた。ところが、馬場校長の説明によれば、原告が平成三年に入って起こしたてんかんの発作の回数は平成二年と比べて格段に多いことを知った原告の主治医は、馬場校長の説明を聞き終えて、馬場校長に対し、今年の三月から薬を替えているが、今回から薬を強めてみること、休職しても原告の発作が治まるという保障はないが、原告の申出があれば休職を要するという診断書を書くつもりがあることなどを話した。そこで、馬場校長は原告を説得して休職の申出をしてもらうほかないと考えて、原告に休職を納得してもらうために何回か話合いの機会を持ったが、原告は休職することには全く納得せず、話合いの途中で退席してしまうこともあった(<証拠略>、原告本人、弁論の全趣旨)。

(五) 馬場校長は、原告が休職に納得しない状況を見て、平成四年二月二〇日大野田小学校PTA会長とともに武蔵野市教育委員会に出向き、指導室長に原告の人事上の措置を相談するとともに、大野田小学校において臨時の主任会を開催したが、その席上原告を休職させた方がよいという意見が出された。原告は馬場校長から東京都教職員相談室で診察を受けるよう言われ、同年三月六日同相談室において松沢病院の新川医師の診察を受け、馬場校長に対し同相談室の医師から休職する必要はないと言われたという報告をした。東京都教育委員会は平成四年度については原告を過員措置教員に充てたので、馬場校長は原告に学級担任を受け持たせなかった。原告は平成四年四月当初は「病気でもないのになぜ学級担任をさせないのか。疲れているではわからない。」と文句を言っていた。馬場校長は平成四年度の原告の校務分掌としては保健指導部(保健室管理や保健指導などを行う部署で、原告は他の教諭三名とともに清掃指導を担当していた。)、庶務部(学校だよりの作成、文書管理などを行う部署で、原告は家庭からの各種届出用紙の印刷を担当していた。)、教科研究部生活科(教科の指導方法を研究する部署で、原告は他の教諭二名とともに生活科の研究班に所属していた。)、身障教育推進委員会(通常学級と身障学級との交流教育の方法と推進を行う部署)に所属させることにし、平成四年度の開始に当たってその旨を原告に伝え、平成四年度の原告の職務としては、学級担任の代わりに、低学年の補教(学級担任の教諭が出張などにより不在となる場合に代わりに授業を担当すること)、教頭や教務主任の事務補助(教育委員会からの文書などの配布、月間行事予定や指導・伝達文書の印刷)、環境整備(いぶき教室(肢体不自由学級)の整備、職員室の資料棚の整理、消耗品引き出しの整理、資材室の整理、図書カードのプリント)を行わせることにし、これらの職務については必要に応じてその都度原告に指示したが、原告は校務分掌に係る部や委員会には出席したりしなかったりであり、原告が低学年の補教をしたのは一回だけで、原告は教頭が頼めばチラシの配布や文書の印刷をしていた。また、馬場校長は、原告から学級担任をさせてもらえないのなら心身障害児童の教育をさせてほしいと言われたので、大野田小学校に設けられた心身障害児童のための学級(むらさき学級と呼ばれ、学年に関係なくおおむね八名程度の児童が在籍している学級である。)における授業の見学を研修を兼ねて原告に行わせたが、むらさき学級を担当する教諭からの苦情で平成四年四月に四回見学を行っただけで取りやめとなった。原告が馬場校長から与えられた職務を済ませてしまうと、原告には何もすることがないので、職員室にいたが、原告は他の教諭の目を気にして、何もすることなく職員室にいることに苦痛を感じていたので、平成四年五月ころ馬場校長に対し空き教室を与えてほしいと申し入れたところ、馬場校長は本来主事の職務である構内の清掃や花壇の除草を一週間に数回行うことを条件に原告に空き教室を与え、原告は以後一週間に数回構内の清掃や花壇の除草などを行っていた。馬場校長は同年五月ころ妊娠した女性教諭について週三回の体育指導を軽減することにし、週三回の体育指導を過員措置教員である原告に行わせることにしたが、平成四年度の二学期に入り、原告は体育指導の件でその女性教諭を大声でなじるなどしたので、馬場校長は原告を体育の指導から外した。馬場校長は同年一〇月二七日武蔵野市教育委員会指導室長とともに国立精神センター武蔵病院に相談に行き、馬場校長の話を聞いた原告の主治医は原告に休職を勧めてみると言ってくれたが、原告は主治医の勧めに応じなかった。馬場校長が原告に休職の話を持ちかけても、原告は話にすら応じなかった。原告は同年一一月二五日に行われた就学時健康診断を担当した際に一緒にこれを担当していた職員が気に入らないといって就学時健康診断を混乱させるなどし、同年一二月二二日にはてんかんの発作を起こして意識を消失し、他の教諭が原告の意識が回復した後にてんかんの発作を起こしたことを原告に告げると、原告は興奮して大声でこれを否定した。馬場校長は原告の度々のてんかんの発作が高じてきており、原告は早急に治療に専念する必要があると考え、同月二五日原告に対し主治医から診断書をもらって提出するよう告げたが、原告は平成五年一月八日これを拒否すると答えてきた。そこで、馬場校長は原告の件を武蔵野市教育委員会に報告し、その報告を踏まえて東京都教育委員会は同月二〇日付けで原告に対し東京都立府中療育センターにおいて同月二五日午後一時に同センター精神科の西牟田医師の診察を受けるよう通知した。原告が東京都立府中療育センターで診断を受ける際に武蔵野市教育委員会の職員及び東京都多摩教育事務所の職員各一名並びに武蔵野市立大野田小学校教頭の計三名が原告の了解を得て原告に同行したが、原告が西牟田医師の診断を受けている部屋には入らず、外で待機していた(前記第二の二3及び4、<証拠略>、原告本人、弁論の全趣旨)。

(六) 西牟田医師の平成五年一月二五日付けの診断書の病歴及び経過欄には「S-42年ごろ初発。『てんかん』と言われた。以後治療を受けていたが、発作のコントロールは良好ではなく、意識消失発作、もうろう発作がみられている。」と、現症状欄には「発作による問題行動についての病識は無い。そのため被害妄想を生じている。ガンコで一方的」と、それぞれ書かれており、西牟田医師の平成六年一月一九日付けの診断書の病歴及び経過欄には「S-42年ごろ初発。『てんかん』と言われた。以後治療を受けていたが、発作のコントロールは良好でなく意識消失発作、もうろう発作がみられている。平成5年1月より休職となったが、てんかん性性格変化(ガンコ、易刺激的など)のため対人接触は不良」と、現症状欄には「もうろう発作時の問題行動を否定し、認めない。攻撃的な言動、被害的言動。ガンコで、一方的。こちらの説明をまったく受け入れようとしない。」と、それぞれ書かれており、西牟田医師の平成七年一月一〇日付けの診断書の病歴及び経過欄には「24才初発。複雑部分発作がつづいている。薬物療法により3ケ月に一度の頻度となった。」と、現症状欄には「発作は減少しているが、問題行動に対する病識は無い。一方的な理解のため、説得がきわめて困難な状態にある。」と、それぞれ書かれていた(<証拠略>)。

(七) 原告が平成七年一月一〇日に西牟田医師の診断を受けた際に大野田小学校教頭などが原告の了解を得て原告に同行したが、原告が西牟田医師の診断を受けている部屋には入らず、外で待機していた。原告が右の西牟田医師の診断後に休職願の提出を求められ、これを拒否したところ、東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が同月二三日やけどで警察病院に入院中であった原告を訪ね、原告に対し休職願の提出を求めた。原告が休職願の提出を拒否したので、原告の実兄である甲野一郎を病院に呼び寄せて原告を説得してもらい、原告の同意の下に甲野一郎に休職願を代筆してもらい、甲野一郎から休職願の提出を受けた(東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が同月二三日警察病院に入院中であった原告を訪ねたこと、原告の実兄が原告の入院していた病院に来たことは争いがなく、その余は<証拠略>、原告本人、弁論の全趣旨)。

(八) 西牟田医師は平成七年一月一〇日の診察の際に原告から復職の可否について尋ねられ、復職訓練の結果いかんによっては復職も考えられないではないと答えた。そこで、原告は同年四月二二日人事委員会に復職訓練を始めるように訴えたところ、原告の復職訓練が同年五月二二日から開始され、一か月間続けられたが、原告が復職を強く望んだにもかかわらず、原告の復職は認められなかった(原告の復職訓練が同年五月二二日から一か月間行われたこと、原告の復職が認められなかったことは争いがなく、その余は<証拠略>)。

(九) 西牟田医師の同年七月一八日付けの診断書の病歴及び経過欄には「S-42年ごろ初発の側頭葉てんかん。H-7年1月より6ケ月無発作がつづいている。」と、現症状欄には「思い込みが強く一方的言動が見られる。自分本位の考え方が強く、他人の説得はほとんど受け入れられない。けいれん発作は無く一般的日常生活は可能である。」と書かれていた(<証拠略>)。

(一〇) 原告の主治医である小穴医師の同年七月三一日付けの診断書の附記欄には「本年に入り発作はコントロールされており、復職可能と思われます。」と書かれており、小穴医師の同年九月二〇日付けの診断書の附記欄には「本年に入り、発作はコントロールされており、現場復帰可能と思われます。」と書かれており、小穴医師の同年一一月二四日付けの診断書の附記欄には「服薬にて発作はコントロールされている様です。外科的治療はする必要がないと診断されています。本人は職場復帰を希望しています。何卒よろしくお願い申し上げます。」と書かれていた(<証拠略>)。

(一一) 西牟田医師の同年一二月二〇日付けの診断書の病歴及び経過欄には「幼少時中耳炎→脳炎? 24才より側頭葉てんかん。H-5-1-27より休職。その後休職で現在に至る。」と、現症状欄には「攻撃的、一方的言動、興奮しやすく説得に応じない。被害妄想(ものが無くなると、ドロボウに入られたという)。てんかん性精神病に近い。」と書かれていた(<証拠略>)。

(一二) 原告は桜堤小学校に勤務しているときに一時期だけ武蔵野市教育委員会に勤務していたことがある(争いがない。)。

2(一)  以上の事実が認められる。

(二)  これに対し、

(1)ア 原告は、原告は平成元年六月一〇日にてんかんの発作を起こしたものの、そのまま授業を行ったと主張する。

しかし、原告が授業参観日にてんかんの発作のために授業ができなかったという馬場校長の陳述書(<証拠略>)における供述は、教頭からの伝聞とはいえ、一応具体的であること、原告が平成元年六月一〇日に起こした発作は授業参観日という特別な日に起きた出来事であり、原告が発作を起こしたときの状況や原告が発作を起こした後の状況については授業参観に来ていた多数の保護者が見ていたはずであって、そのような状況の下で起きた原告の発作について馬場校長が殊更に虚偽の供述をすることは考え難いこと、以上の点によれば、馬場校長の陳述書(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告は馬場校長の陳述書(<証拠略>)のとおり授業参観日にてんかんの発作のために授業ができなかったことを認めることができる。証拠(<証拠略>)はこの認定を左右するには足りず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

イ 被告は、原告が平成元年度にしばしばてんかんの発作を起こしたことで、学校は保護者から苦言を呈されたことがあったと主張しており、馬場校長の陳述書(<証拠略>)には右の主張に沿う部分があるが、馬場校長の陳述書(<証拠略>)だけでは右の被告の主張に係る事実を認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(2)ア 原告は、原告がてんかんの発作を起こした平成二年四月一七日に体育の授業ができなかったことを否認しており、その理由は発作の後に保健室で横になっていないことであるようである。

しかし、原告がてんかんの発作を起こした平成二年四月一七日に体育の授業ができなかったという馬場校長の陳述書(<証拠略>)における供述は、一応具体的であること、原告がてんかんの発作を起こしたのは体育の授業の開始の直前であり、てんかんの発作のため授業の内容が変更されたというのであるから、原告が学級担任を受け持っていたクラスの児童も原告がてんかんの発作を起こしたことは認識し得る状況にあったものと考えられ、そのような状況の下で起こった原告の発作について馬場校長が殊更に虚偽の供述をすることは考え難いこと、原告が発作の後に保健室で横になっていないというだけでは、原告が発作後に体育の授業を行ったということはできないこと、以上によれば、馬場校長の陳述書(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告がてんかんの発作を起こした平成二年四月一七日に体育の授業ができなかったことを認めることができる。証拠(<証拠略>)はこの認定を左右するには足りず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

イ 原告は、原告は平成三年二月七日に三回もてんかんの発作を起こしたことはなく、保健室に運び込まれたこともないと主張する。

しかし、原告が平成三年二月七日に三回もてんかんの発作を起こしたという馬場校長の陳述書(<証拠略>)における供述は、このうち一回は自ら体験したことであり、その余の二回は校外学習を引率した第四学年の学年主任からの伝聞とはいえ、いずれもその内容は一応具体的であること、原告が平成三年二月七日に起こした発作は校外学習という特別な日に起きた出来事であり、原告が発作を起こしたときの状況や原告が発作を起こした後の状況については校外学習に参加した第四学年の児童の多くが見ていたはずであって、そのような状況の下で起きた原告の発作について馬場校長が殊更に虚偽の供述をすることは考え難いこと、以上によれば、馬場校長の陳述書(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告が平成三年二月七日に三回もてんかんの発作を起こしたことを認めることができる。証拠(<証拠略>)はこの認定を左右するには足りず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

(3)ア 原告は、平成三年四月八日、同年五月七日、同年六月六日、同年一〇月二四日、同年一一月二日及び同月二七日に、それぞれてんかんの発作を起こした記憶はなく、同年五月七日の発作の際の原告の行動や発言は精神病的な発想であり、そのような行動や発言をしたことはないと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には右の主張に沿う供述がある。

しかし、原告が右の各日にちにてんかんの発作を起こしたという馬場校長のメモ(<証拠略>)又は陳述書(<証拠略>)における供述はいずれも一応具体的であること、原告がてんかんの発作を起こしたときのそれぞれの状況からすると、馬場校長が原告の発作について殊更に虚偽の供述をすることは考え難いこと、原告に記憶がないというだけでは原告が右の各日にちにてんかんの発作を起こしたことを否定する理由にはならないこと、証拠(<証拠略>)によれば、てんかんの発作の際に異常な行動が見られることや精神病のような症状が発症することがあることが認められるのであって、同年五月七日の発作の際の原告の行動や発言が精神病的な発想であるというだけでは、原告が同年五月七日の発作の際に前記のとおり発言し行動したことを否定することはできないこと、以上によれば、馬場校長のメモ(<証拠略>)又は陳述書(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告が右の各日にちに馬場校長のメモ(<証拠略>)又は陳述書(<証拠略>)のとおりてんかんの発作を起こしたこと、原告が同年五月七日の発作の際に前記のとおり発言し行動したことを認めることができる。証拠(<証拠略>)はこれらの認定を左右するには足りず、これらの認定に反する原告の陳述書(<証拠略>)における供述は採用できず、他にこれらの認定を左右するに足りる証拠はない。

イ 原告は、同年七月一九日にてんかんの発作を起こしたことはなく、「残さず食べなきゃ駄目じゃない。」という発言も、職員会議のときに出されたお菓子に誰も手をつけていないので、冗談に給食を食べ残したこどもに向かって言うようにふざけて言っただけであり、原告の隣に座っていた教諭は「発作を起こした。」と大声で叫んだが、低学年の女性の教諭らは原告の冗談がわかったと見え、くすくす笑っていたと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には右の主張の(ママ)沿う供述がある。

しかし、原告が同年七月一九日にてんかんの発作を起こしたという馬場校長のメモ(<証拠略>)又は陳述書(<証拠略>)における供述は、原告の発言の趣旨、動機を除いては、おおむね原告の陳述書(<証拠略>)における供述と一致すること、原告が右の発言をするに至った経緯が不明であり、原告が冗談で発言したことが明らかであるとはいえないのであり、かえって原告の隣にいた教諭は原告の発言を聞いて原告がてんかんの発作を起こしたと受け取ったことからすると、原告の供述だけでは右の原告の発言が冗談としてされたものであることは認められないのであり、他にこれを認めるに足りる証拠はないこと、以上によれば、馬場校長のメモ(<証拠略>)又は陳述書(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告が同年七月一九日にてんかんの発作を起こしたことを認めることができる。証拠(<証拠略>)はこの認定を左右するには足りず、この認定に反する原告の陳述書(<証拠略>)における供述は採用できず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

ウ 原告は、同年九月二七日にてんかんの発作を起こしたときの件について、職員会議後に皆で帰宅しようとしたときに発作が起こったのであり、意識が戻ったときにも全員がそこにいたから、一〇分程度という長い時間意識を消失していたはずはないし、保健室で着替えたこともないし、病院では左半身の治療を受けておらず、左半身に大きく擦過傷を負ったということはないと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には右の主張の(ママ)沿う供述がある。

しかし、原告が同年九月二七日にてんかんの発作を起こしたという馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述は一応具体的であること、原告がてんかんの発作を起こしたときの状況及びその後の状況からすると、馬場校長が原告の意識消失の時間について殊更に虚偽の供述をすることは考え難いこと、意識が戻ったときにその場に一緒に帰宅しようとしていた全員がいたというだけでは、原告が同年九月二七日に起こしたてんかんの発作の際に意識を消失した時間が一〇分程度であったことを否定することはできないこと、原告が病院で手当を受けたのは頭部の打撲についてであるから、病院で左半身の治療を受けていないというだけでは、原告が左半身に大きく擦過傷を負ったことを否定することはできないこと、以上によれば、馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告が同年九月二七日に起こしたてんかんの発作の際に意識を消失した時間は一〇分程度であったこと、原告が左半身に大きく擦過傷を負ったことを認めることができる。原告がてんかんの発作を起こして意識を消失するのは、通常は三〇秒間から一分間であり、長くてもせいぜい二分間であるという原告の陳述書(<証拠略>)及び本人尋問における供述は原告の意識の消失時間が一〇分程度であったという認定を左右するには足りず、証拠(<証拠略>)は右の認定を左右するには足りない。右の認定に反する原告の陳述書(<証拠略>)における供述は採用できず、他に右の認定を左右するに足りる証拠はない。

エ 原告は、原告が同年一〇月三〇日に校庭の隅にある鉄棒のところで五、六人の児童が立っていたので、「あの子たちはなぜ残っているの、おかしいじゃないの」と聞いたところ、一緒にいた教諭が「あれはサッカークラブの子どもたちで親がついているのだ。」と教えてくれたのであり、原告が転倒したのは発作のためではないと主張しており、その陳述書(<証拠略>)では転倒したことも否定している外は右の主張に沿う供述をしている。

しかし、原告が同年一〇月三〇日にてんかんの発作を起こしたという馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述は、転倒の事実を除いては、おおむね原告の陳述書(<証拠略>)における供述と一致すること、原告が同年一〇月三〇日に起こした発作はサッカークラブの児童やその保護者の前で起きた出来事であり、原告が発作を起こしたときの状況や原告が発作を起こした後の状況についてはサッカークラブの児童やその保護者も見ていたはずであって、そのような状況の下で起きた原告の発作について馬場校長が殊更に虚偽の供述をすることは考え難いこと、原告はその陳述書(<証拠略>)において「あの子たちはなぜ残っているの、おかしいじゃないの」と聞いた状況について、背の高さが同じくらいで大人がいるようには見えなかったので、ビックリして多少声が大きかったと供述しているが、「あの子たちはなぜ残っているの、おかしいじゃないの」と聞いたことの弁解としてはいささか不自然であること、前記認定のとおりてんかんの発作の際に異常な行動が見られることや精神病のような症状が発症することがあること、以上によれば、馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告が同年一〇月三〇日に馬場校長がメモ(<証拠略>)において供述するとおりの経過でてんかんの発作を起こしたことを認めることができる。原告はこれまでに幻覚とか錯覚などといった症状を発症したことはないという原告の本人尋問における供述は、右の認定を左右するには足りず、証拠(<証拠略>)は右の認定を左右するには足りない。右の認定に反する馬場校長の陳述書(<証拠略>)における供述は採用できず、他に右の認定を左右するに足りる証拠はない。

オ 馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述だけでは、原告が同年一一月一八日(月曜日)午後二時三〇分に約一〇分間右脇腹を押さえたままうずくまり、顔面蒼白で意識がなかったのがてんかんの発作であることを認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

カ 馬場校長の陳述書(<証拠略>)における供述だけでは、原告が同年一二月六日てんかんの発作を起こして職員室で大声を上げたことを認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

キ 原告はその陳述書(<証拠略>)において、原告はこれまでてんかんの発作を起こすと声を出すとは誰からも聞いたことがないから、原告が同年一二月二四日にてんかんの発作を起こした際にうなっていないと供述している。

しかし、原告が同年一二月二五日にてんかんの発作を起こしたという馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述は、一応具体的であること、原告がてんかんの発作を起こしたときの状況からすると、馬場校長が原告の発作について殊更に虚偽の供述をすることは考え難いこと、原告は同年一二月二四日にてんかんの発作を起こしたことは否定していないのであり、原告がてんかんの発作を起こした際にうなったことがあることは前記認定のとおりであるから、単にこれまで原告がてんかんの発作を起こすと声を出すとは誰からも聞いたことがないからといって、そのことから原告が同年一二月二四日にてんかんの発作を起こした際にうなっていないということはできないこと、以上によれば、馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告が同年一二月二四日にてんかんの発作を起こした際にうなっていたことを認めることができる。証拠(<証拠略>)、原告の陳述書(<証拠略>)又は本人尋問における供述はこの認定を左右するには足りず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

ク 原告は、原告は同年一二月二五日にアーニーズで食事をしたことはないから、その日にてんかんの発作を起こしていないと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には右の主張の(ママ)沿う供述がある。

しかし、原告が同年一二月二五日にてんかんの発作を起こしたという馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述は、一応具体的であること、原告がてんかんの発作を起こしたときの状況からすると、馬場校長が原告の発作について殊更に虚偽の供述をすることは考え難いこと、以上によれば、馬場校長のメモ(<証拠略>)における供述は信用性を有するものと認められ、この供述によれば、原告が同年一二月二五日にてんかんの発作を起こしたことを認めることができる。証拠(<証拠略>)はこの認定を左右するには足りず、この認定に反する原告の陳述書(<証拠略>)における供述は採用できず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

(4) 原告は、平成三年四月以降は原告の教育に対する情熱を惜しみなく出せる職場環境ではなかったと主張し、その具体例として前記第三の一1(一)(2)アないしエを挙げているが、前記第三の一1(一)(2)アないしウのうち原告の主張に係る校長、教頭、生徒、用務員の発言については、本件全証拠に照らしても、これを認めることはできず、前記第三の一1(一)(2)エについては、本件全証拠に照らしても、これを認めることはできない(なお、前記第三の一1(一)(2)ウで原告が主張する事実については、前記第三の一1(五)で認定した限度において認めることができる。これらの事実に基づいて特に平成四年四月以降は原告の教育に対する情熱を惜しみなく出せる職場環境ではなかったといえるかどうかについては、後記第三の一3(一)(2)アを参照されたい。)。

(5) 原告は、東京都教職員相談室の新川医師は平成四年三月六日の診察の際に休職する必要はないと診断したと主張し、その陳述書(<証拠略>)には右の主張に沿う供述があるが、この供述だけでは右の主張に係る事実を認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(6)ア 原告は、原告が平成五年一月二五日に西牟田医師の診断を受けた際に同行したのは大野田小学校の教頭の外三名であると主張しており、その陳述書(<証拠略>)には右の主張に沿う供述があるが、この供述だけでは右の主張に係る事実を認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

イ 原告は、原告が平成五年一月二五日に西牟田医師の診断を受けた際に同行した者たちが原告が診断を受けている部屋に入って診断の様子を見張っていたと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には右の主張に沿う供述があるが、この供述だけでは右の主張に係る事実を認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(7) 原告は、原告が平成六年一月一九日に西牟田医師の診断を受けた前後に原告の主治医が原告を診察した際の診断結果を記載した診断書には「休職を要する」とは書かれていなかったと主張するが、本件全証拠に照らしても、右の主張に係る事実を認めることはできない。

(8) 原告は、原告の主治医が同年七月に原告を診察した際の診断結果を記載した診断書には「復職可能」と書かれていたので、原告は「休職願」を都教委に提出しなかったところ、分限処分となったと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には原告の主治医が同年七月に原告を診察した際の診断結果を記載した診断書には「復職可能」と書かれていたという供述があり、その本人尋問には復職が可能であるという診断を受けたという供述がある。

しかし、原告の供述だけでは原告の主治医が同年七月に原告を診察した際の診断結果を記載した診断書には「復職可能」と書かれていたことを認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。また、本件全証拠に照らしても、原告が同年七月に「休職願」を都教委に提出するよう求められたこと、原告がこれを提出しなかったことを理由に分限処分とされたことを認めることはできない。

(9)ア 原告は、原告が平成七年一月に原告の主治医の診察を受けたところ、原告の主治医が復職可能であると診断したと主張しているが、本件全証拠に照らしても、右の主張に係る事実を認めることはできない。

イ 原告は、原告が平成七年一月一〇日に西牟田医師の診断を受けた際に原告に同行した者たちが原告が診断を受けている部屋に入って同席していたと主張しているが、本件全証拠に照らしても、右の主張に係る事実を認めることはできない。

ウ 原告は、原告が平成七年一月一〇日に西牟田医師の診断を受けた際に西牟田医師が三か月ないし半年くらい休職の形で出勤して復職訓練をするよう診断したと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には右の主張に沿う供述がある。

しかし、西牟田医師の平成七年一月一〇日付けの診断書の現症状欄には「発作は減少している」と書かれていたこと(前記第三の一1(六))、西牟田医師による平成五年一月二五日の診断及び平成六年一月一九日の診断ではそれぞれ一年間の休職を要すると診断されたのに対し、平成七年一月一〇日の診断では六か月間の休職を要すると診断されていること(前記第二の二4、6及び7)、原告は平成七年五月二二日から一か月間復職訓練を行ったこと(前記第三の一1(八))に照らせば、西牟田医師が平成七年一月一〇日の診断の際に原告から復職の可否について尋ねられ、復職訓練の結果いかんによっては復職も考えられないではないと答えたものと考えられ、これに証拠(<証拠略>)も併せて考えれば、西牟田医師は平成七年一月一〇日の診断の際に原告から復職の可否について尋ねられ、復職訓練の結果いかんによっては復職も考えられないではないと答えたことを認めることができるが、西牟田医師が右の診断の際に原告は復職が可能であると診断したことまでは認めることはできない。この認定に反する原告の陳述書(<証拠略>)は採用できず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

エ 原告は、原告が平成七年一月一〇日に西牟田医師の診断を受けた後に休職願の提出を求められ、これを拒否したところ、東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が同月二三日やけどで警察病院に入院中であった原告を訪ね、原告に対し休職願の提出を求めた上、原告が提出を拒否すると、原告の実兄である甲野一郎を病院に呼び寄せて強引に休職願の提出を迫って休職願を書かせたと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には右の主張に沿う供述があるが、この供述だけでは東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が原告に対し強引に休職願の提出を迫って休職願を書かせたことを認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(10) 原告は、西牟田医師が平成七年七月の診断の際に「職場訓練をしても校長が『来ても困る。』と言えば、どうしようもないのであるから従うしかない。」と言っていたと主張しているが、本件全証拠に照らしても、右の主張に係る事実を認めることはできない。

(11) 原告は、原告が東京都公立学校教員として勤務していたときに前記第二の三1(一)(5)アないしカのとおり同僚をはじめとする陰湿な嫌がらせを受けたと主張しており、その陳述書(<証拠略>)には前記第二の三1(一)(5)アの主張に沿う供述がある。

しかし、原告の供述だけでは前記第二の三1(一)(5)アの主張に係る事実を認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。また、本件全証拠に照らしても、前記第二の三1(一)(5)イないしオに係る事実を認めることはできない。また、前記第二の三1(一)(5)カに係る事実については、原告が桜堤小学校に勤務しているときに一時期だけ武蔵野市教育委員会に勤務していたことがあることは認めることができるが、本件全証拠に照らしても、その期間が三年間であること、原告が武蔵野市教育委員会で勤務したのは同僚から原告が受け持っているクラスの父母に持病のこと言(ママ)いふらされて教育委員会に訴えられ、教育長が困って執られた措置であることを認めることはできない。

ところで、原告のてんかんの発作は原告が関前南小学校で勤務していたときは薬物療法によってよくコントロールされていた(前記第三の一1(一))のに、関前南小学校から異動した大野田小学校での勤務が三年目となる平成三年から原告のてんかんの発作の回数が格段に増加した理由は全く明らかではないが、そうであるからといって、大野田小学校での勤務が三年目となる平成三年から原告のてんかんの発作の回数が格段に増加したことの理由としては、原告が平成三年四月以降同僚をはじめとする陰湿な嫌がらせを受けていたことしか考えられないということはできない。したがって、大野田小学校での勤務が三年目となる平成三年から原告のてんかんの発作の回数が格段に増加したことは、前記第二の三1(一)(5)アないしカに係る事実の全部又は一部が認められないという判断を左右するものではない。

3  以上の事実を前提に、被告に原告の主張に係る債務不履行又は義務違反があったかどうかについて判断する。

(一) 原告は、原告にはてんかんという持病があったが、そのために勤務に何らかの支障があったというわけではなかったのであるから、被告は大野田小学校において原告を他の教諭たちと同等に取り扱うべきであったのにこれを怠り、他の教諭たちと同等の機会を与える職場環境を提供しなかったという債務不履行があり、仮に原告の持病が他の教諭たちと同等の機会及び同等の職場環境を維持できない支障を来すものであったとしても、被告には持病を有することが勤務に支障を来す程度と合理的に相当する程度の職場環境を提供する義務があるのにこれを怠り、原告の持病の程度から著しくかけ離れた不合理な職場環境を原告に提供したという債務不履行があると主張するので、まず、この点について判断する。

(1)ア 原告は昭和三八年に東京都公立学校教員として採用され平成八年三月三一日に依願退職するまで小学校に勤務してきたのである(前記第二の二1)から、原告の職務は、要するに、小学校の教諭として満六歳から満一二歳までの児童に対しその心身の発達に応じて初等普通教育を施す(学校教育法一七条、二二条)ことということになるが、原告がてんかんという持病を有していても、原告が他の小学校の教諭と同じように児童に対し初等普通教育を施すのにその持病が何らの妨げにもならないのであれば、地方公務員法一三条に照らし、原告がてんかんという持病を有することを理由に小学校の教諭としての原告を原告が勤務する小学校の他の教諭と区別して取り扱うことは許されないというべきであり、原告が他の教諭と同じように児童に対し初等普通教育を施すのに原告のてんかんという持病が何らの妨げにもならない場合には、被告は原告に対し、原告がてんかんという持病を有することを理由に小学校の教諭としての原告を原告が勤務する小学校の他の教諭と区別して取り扱わない義務を負っているものというべきであり、したがって、例えば、原告が他の教諭と同じように児童に対し初等普通教育を施すのに原告のてんかんという持病が何らの妨げにもならないにもかかわらず、学級担任を受け持たせるかどうかを決めるに当たって原告がてんかんという持病を有しているという理由だけで原告に学級担任を受け持たせないという取扱いをすることは右の義務に違反することになると解される。

イ これに対し、原告のてんかんという持病によって原告が他の教諭と同じように児童に対し初等普通教育を施すことができないとすれば、小学校の教諭としての原告を原告が勤務する小学校の他の教諭と区別して取り扱うことは、その区別が合理的なものである限り、許されるというべきであり、原告がてんかんという持病によって他の教諭と同じように児童に対し初等普通教育を施すことができない場合には、原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な職務を原告に提供している限りは、被告は原告に対し負っている前記義務には違反しないのであり、したがって、例えば、原告がてんかんという持病によって他の教諭と同じように児童に対し初等普通教育を施すことができないので、学級担任を受け持たせるかどうかを決めるに当たって原告がてんかんという持病を有しているという理由で原告に学級担任を受け持たせないという取扱いをし、又は、学級担任以外の職務を与えるという取扱いをすることは、その取扱いが原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的なものである限り、被告が原告に対し負っている前記義務には違反しないと解される。

(2) 原告にはてんかんという持病があったが、そのために勤務に何らかの支障があったわけではなかったのであるから、被告は大野田小学校において原告を他の教諭たちと同等に取り扱うべきであったのにこれを怠り、他の教諭たちと同等の機会を与える職場環境を提供しなかったという債務不履行があるという前掲の原告の主張は、要するに、右(1)アで説示した趣旨でされたものと解され、また、原告の持病が他の教諭たちと同等の機会及び同等の職場環境を維持できない支障を来すものであったとしても、被告には持病を有することが勤務に支障を来す程度と合理的に相当する程度の職場環境を提供する義務があるのにこれを怠り、原告の持病の程度から著しくかけ離れた不合理な職場環境を原告に提供したという債務不履行があるという前掲の原告の主張は、要するに、右(1)イで説示した趣旨でされたものと解される。

そこで、前掲の原告の主張が右に説示した趣旨の主張であるとして、まず、平成四年度以降原告を大野田小学校に勤務する他の教諭と区別して取り扱うことがおよそ許されないかどうかについて検討する。

原告は、てんかんという持病を有していた(前記第二の二2)が、原告が勤務していた大野田小学校の校長をはじめとする教諭によって原告がてんかんの発作を起こしたのを現認されたのは、平成元年は六月一〇日だけであり、平成二年は平成二年四月一七日と同年九月二〇日だけであったが、平成三年に入ると、平成三年二月七日、同年四月八日、同年五月七日、同年六月六日、同年七月一八日、同月一九日、同年九月三日、同月二七日、同年一〇月二四日、同月三〇日、同年一一月二日、同月二七日、同年一二月二四日、同月二五日にのぼっており(前記第三の一1(一)ないし(三))、このように、平成三年に入ると、てんかんの発作を起こした原告を現認する回数が急激に増加しているのであって、しかも、平成三年に現認された原告のてんかんの発作には意識消失発作やもうろう発作がみられるようになっているのである(前記第三の一1(三))。

このような平成三年に入って起きた原告のてんかんの発作の回数や程度によれば、原告がてんかんという持病を有していても、それが児童に対し初等普通教育を施すのに何らの妨げにもならないということはできないのであって、原告は平成四年に入ろうとする時点ではてんかんという持病によって他の教諭と同じように学級担任として児童に対し初等普通教育を施すことができない状態になったというべきである。そして、西牟田医師及び小穴医師の各診断書によれば、原告のてんかんの発作は平成六年に入ると減少し始め、平成七年一月以降はてんかんの発作をほとんど起こさなくなった(前記第三の一1(六)、(九)、(一〇))というのであるから、原告がてんかんの発作を起こしていたのは平成三年だけにとどまらないのであって、原告は平成四年以降もしばしばてんかんの発作を起こしていたものというべきである(馬場校長の陳述書(<証拠略>)には平成四年に入ってからの原告のてんかんの発作についての記述がほとんどなく、「たびたびのてんかんの発作が高じてくるのを見て、甲野花子さんには、早急に治療に専念することが必要と判断し」といった程度の記述しかないが、そうであるからといって、平成四年に入ると、原告のてんかんの発作が減少したというわけではないと考えられる。)。

これに対し、原告は、その本人尋問において、仮に原告が馬場校長の供述するとおりてんかんの発作を起こしたとしても、授業に差し支えはなかったという趣旨の供述をしているが、右の原告の供述は、要するに、原告がてんかんの発作を起こしたときに児童が何をすべきかを理解していて、原告があらかじめてんかんの発作を起こしたときのための準備をしておけば、授業に差し支えはないという趣旨の部分と、授業中に発作を起こすということはほとんどなく、馬場校長外が原告がてんかんの発作を起こすのを現認したのはいずれも授業中のことではなかったから、授業に差し支えはないという趣旨の部分から成るが、前者については、原告がてんかんの発作を起こしても、児童が冷静に対応することができることを前提としているところ、原告が学級担任を受け持っていた児童は満六歳から満一二歳までの心身の発達の途上にある者であり、原告がてんかんの発作を起こしたときに常に冷静に対応することができるとは期待し難いのであって、そうであるとすると、原告が馬場校長の供述するとおりてんかんの発作を起こしたとしても授業に差し支えはなかったということはできないのであり、後者については、原告のてんかんの発作は、平成三年に入ると、薬物療法によってコントロールすることが困難な状態となっていたのであり、授業中にはてんかんの発作は絶対に起こらないといえる状態ではなかったのであるから、馬場校長外が原告がてんかんの発作を起こすのを現認したのがいずれも授業中のことではなかったからといって、そのことから、原告が馬場校長の供述するとおりてんかんの発作を起こしたとしても授業に差し支えはなかったということはできない。

したがって、原告は平成四年以降はてんかんという持病によって他の教諭と同じように学級担任として児童に対し初等普通教育を施すことができない状態になっていたというべきであり、そうである以上、原告を他の教諭と区別して取り扱うことは、その区別が原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的なものである限り、許されるのであり、被告が原告に対し負っている前記義務には違反しないというべきである。

そうすると、原告にはてんかんという持病があったが、そのために勤務に何らかの支障があったわけではなかったのであるから、被告は大野田小学校において原告を他の教諭たちと同等に取り扱うべきであったのにこれを怠り、他の教諭たちと同等の機会を与える職場環境を提供しなかったという債務不履行があるという前掲の原告の主張は、その前提を欠いており、採用できない。

(3) そこで、次に、原告を他の教諭と区別して取り扱ったことが、原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的なものであるかどうかについて検討する。

ア 原告は平成四年以降はてんかんという持病によって他の教諭と同じように学級担任として児童に対し初等普通教育を施すことができない状態になっていたというべきであるから、馬場校長が平成四年度に原告に学級担任を受け持たせなかったことは、平成四年に入ろうとする時点における原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な取扱いであったと認められる。

また、平成四年度は原告について過員教員措置が執られたのであるから、平成四年に入ろうとする時点における原告のてんかんという持病の程度に照らせば、平成四年度に大野田小学校において小学校の教諭としての原告に与えるべき職務は、せいぜい馬場校長が平成四年度の原告の職務として考えていた低学年の補教、教頭や教務主任の事務補助、環境整備といった職務しかなかったものというべきである。したがって、平成四年度に大野田小学校において小学校の教諭としての原告に低学年の補教、教頭や教務主任の事務補助、環境整備といった職務しか与えなかったことは、平成四年に入ろうとする時点における原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な取扱いであったと認められる。

馬場校長は平成四年度に原告に本来主事の職務である構内の清掃や花壇の除草を一週間に数回行わせていたが、これは原告に空き教室を与えることの条件として原告に課せられた職務であり、馬場校長が本来主事の職務をあえて教諭である原告に与えたのは、その陳述書(<証拠略>)によれば、空き教室を与えて一日中原告が空き教室に閉じこもっていたのでは、原告が発作を起こして誰にもわからないという事態を招きかねず、また、原告と他の教諭とのコミュニケーションが取れなくなってしまうことを(ママ)おそれがあったからであるというのであり、そうであるとすると、馬場校長は平成四年度に原告に本来主事の職務である構内の清掃や花壇の除草を一週間に数回行わせたことは、平成四年に入ろうとする時点における原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な取扱いであったと認められる。

これに対し、原告は、平成四年度の原告の職務として、教育委員会での勤務、図書の授業、図工や書道などの特殊教科の担任、特殊学級の担任をさせるべきであったと主張するが、原告の平成四年度における大野田小学校における勤務ぶりからすれば、原告がてんかんという持病を抱えたままで十分にその職責を果たすことができるとは考え難く、したがって、原告の主張に係る右の各職務をさせなかったことは、平成四年に入ろうとする時点における原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な取扱いであったと認められる。

原告にしてみれば、特に平成四年四月から原告が病気欠勤した平成五年一月までは、おそよ(ママ)原告の教育に対する情熱を惜しみなく出せる職場環境ではなかったと感じられたであろうことは、原告の陳述書及び本人尋問における供述から十分うかがわれるが、そうであるからといって、原告が右に述べたように感じたことは、馬場校長が平成四年度に原告に与えた職務が平成四年に入ろうとする時点における原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な取扱いであるという認定を左右するものではない。

イ 原告は、平成七年一月西牟田医師から復職可能と診断され、原告が職場復帰を強く望んだにもかかわらず、原告の職場復帰は認められなかったと主張する。

しかし、原告が平成七年一月西牟田医師から復職可能と診断されたと認められないことは前記のとおりである。

また、原告の職務は小学校の教諭として満六歳から満一二歳までの児童に対しその心身の発達に応じて初等普通教育を施すというものであり、その職務の性質上、原告と児童との全人格的な接触が不可欠となるところ、西牟田医師及び小穴医師の各診断書によれば、原告のてんかんの発作は平成六年に入ると減少し始め、平成七年一月以降はてんかんの発作をほとんど起こさなくなったが、他方において、原告にはてんかん性性格変化(ガンコ、易刺激的など)が次第に顕著となり、平成七年一二月にはてんかん性精神病に近い症状に至ったと診断されており、そのため対人接触は不良である(前記第三の一1(六)、(九)ないし(一一))というのであるから、平成七年七月の時点において原告を小学校の教諭として復職させるのは適当ではなかったというべきである。

そうすると、平成七年七月の時点で原告を小学校の教諭として復帰させなかったことは右の時点における原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な取扱いであったと認められる。

ウ 以上によれば、平成四年度に原告に低学年の補教、教頭や教務主任の事務補助、環境整備といった職務をさせ、又は、本来主事の職務である構内の清掃や花壇の除草を一週間に数回行わせ、又は、原告の主張に係る前掲の各職務をさせなかったことは、いずれも平成四年に入ろうとする時点における原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な取扱いであるというべきであり、平成七年七月の時点で原告を小学校の教諭として復帰させなかったことは平成七年七月の時点における原告のてんかんという持病の程度に見合った合理的な取扱いであるというべきである。

したがって、原告の持病が他の教諭たちと同等の機会及び同等の職場環境を維持できない支障を来すものであったとしても、被告には持病を有することが勤務に支障を来す程度と合理的に相当する程度の職場環境を提供する義務があるのにこれを怠り、原告の持病の程度から著しくかけ離れた不合理な職場環境を原告に提供したという債務不履行があるという前掲の原告の主張は、採用できない。

(二) 原告は、原告はその持病のために休職を余儀なくされたが、原告が休職するまでの手続の進め方は強引な強要、強制的なものであって、適正な手続に則ったものということはできないのであり、その適正さを著しく欠いた義務違反があると主張するので、次に、この点について判断する。

(1) 前記第二の三1(一)(4)アの主張について

この主張は、馬場校長から休職するよう求められた時点における原告が他の小学校の教諭と同じように児童に対し初等普通教育を施すのにてんかんという持病が何らの妨げにもならなかったことを前提としているところ、平成三年に入って起きた原告のてんかんの発作の回数や程度によれば、原告がてんかんという持病を有していても、それが児童に対し初等普通教育を施すのに何らの妨げにもならないということができないことは、前記認定のとおりであるから、「疲れているから休職しろ」という馬場校長の言動は不平等な取り扱いがなかったとはいえないということはできない。

(2) 前記第二の三1(一)(4)イの主張について

この主張は、原告が学級担任から外された時点における原告が他の小学校の教諭と同じように学級担任として児童に対し初等普通教育を施すのにてんかんという持病が何らの妨げにもならなかったことを前提としているところ、平成三年に入って起きた原告のてんかんの発作の回数や程度によれば、原告がてんかんという持病を有していても、それが学級担任として児童に対し初等普通教育を施すのに何らの妨げにもならないということができないことは、前記認定のとおりであるから、原告を担任から外したことは不平等な取り扱いがされなかったとはいえないということはできない。

(3) 前記第二の三1(一)(4)ウの主張について

大野田小学校教頭をはじめとする同行者が原告が診断を受けている部屋に入らず、外で待機していたことは、前記認定のとおりであるから、この主張に係る事実を認めることはできない。

(4) 前記第二の三1(一)(4)エの主張について

職員の分限に関する条例は地方公務員法二八条二項一号により休職させるときは指定医をしてあらかじめ診断を行わせることとしているので、被告は西牟田医師の診断に基づいて原告を休職させることができるのであって、原告が休職願を提出するか否かは処分事由の告知をしなければならないかどうかに影響するだけである(争いがない。)というのであるから、分限休職処分をされたというだけでは、適正さを著しく欠いた義務違反があるということはできない。

(5) 前記第二の三1(一)(4)オの主張について

この主張に係る事実を認めることができないことは前記説示のとおりである。

(6) 前記第二の三1(一)(4)カの主張について

ア この主張は、平成七年一月一〇日の西牟田医師の診断の際に大野田小学校教頭をはじめとする同行者が原告が診断を受けている部屋に入って診察に立ち会っていたことを一つの前提としているところ、平成七年一月一〇日の西牟田医師の診断の際に大野田小学校教頭をはじめとする同行者が原告が診断を受けている部屋には入らず、外で待機していたことは前記認定のとおりであるから、この主張はその前提の一部を欠いている。

イ この主張は、西牟田医師に対し原告の病状について針小棒大な報告や事実と異なる報告などがされることを一つの前提としている。

原告は主治医に対しては自分の記憶にあるてんかんの発作についてしか報告しておらず、原告の記憶としては平成三年に入ってからてんかんの発作が殊更に増えたというわけではなかったので、原告の主治医は原告の報告を聞いて原告が平成三年に起こしたてんかんの発作の回数は平成二年に起こしたてんかんの発作の回数と大差ないと考えていたこと(前記第三の一1(三))からすると、原告は西牟田医師の診察の際にも自分の記憶にあるてんかんの発作についてしか説明していないと考えられるところ、それにもかかわらず、西牟田医師の平成五年一月二五日付けの診断書の病歴及び経過欄には「S-42年ごろ初発。『てんかん』と言われた。以後治療を受けていたが、発作のコントロールは良好ではなく、意識消失発作、もうろう発作がみられている。」と、現症状欄には「発作による問題行動についての病歴は無い。そのため被害妄想を生じている。ガンコで一方的」と、それぞれ書かれていたこと(前記第三の一1(六))からすると、都教委は西牟田医師が原告の診察をする前にあらかじめ西牟田医師に対し原告の病状について報告していたものと考えられる。そうすると、原告の病状についての都教委の西牟田医師に対する報告の内容いかんによっては誤った診断がされかねないおそれがあるということになる。

しかし、原告は、都教委の西牟田医師に対する報告が針小棒大な報告であることや事実と異なる報告であることなどを具体例を挙げて主張しているわけではないのであるから、西牟田医師の診断が事実上強制されたものであるということはできない。

ウ この主張は、主治医による復職可能という診断結果と西牟田医師による休職を要するという診断結果が異なることを一つの前提としているが、原告の主治医である小穴医師が平成七年一月原告は復職可能であると診断したことが認められないことは前記説示のとおりである。ただ、仮に原告の主張するように主治医は原告の日常生活を把握しているのに対し、西牟田医師は原告の日常生活を把握していないというのであれば、主治医の診断結果の方が西牟田医師の診断結果より正しいということができるが、原告は主治医に対して自分の記憶にあるてんかんの発作についてしか報告しておらず、原告の記憶としては平成三年に入ってからてんかんの発作が殊更に増えたというわけではなかったので、原告の主治医は原告の報告を聞いて原告が平成三年に起こしたてんかんの発作の回数は平成二年に起こしたてんかんの発作の回数と大差ないと考えていた(前記第三の一1(三))というのであり、そうすると、主治医の診断が原告のてんかんの発作の状況を正確に把握した上でされたものということはできないのであって、主治医の診断結果の方が正しいということはできない。

したがって、主治医と西牟田医師の診断結果が異なることは、西牟田医師の診断が事実上強制されたものであることの論拠とはなり得ない。

(7) 前記第二の三1(一)(4)キの主張について

原告が一旦休職願の提出を求められてこれを拒否したにもかかわらず、東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名がやけどで警察病院に入院中であった原告を訪ねて原告に対し休職願の提出を求めた上、原告が休職願の提出を拒否すると、原告の実兄である甲野一郎を病院に呼び寄せて原告を説得してもらい、原告の同意の下に甲野一郎に休職願を代筆してもらい、甲野一郎からの休職願の提出を受けたことは、前記認定のとおりであり、原告が休職願を提出しなくとも、被告は分限休職処分をすることができるにもかかわらず、東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名は右のとおり休職願の提出に固執したといえなくもないが、そうであるからといって、東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が原告に休職願の提出を受けるまでの一連の手続が適法かつ適正の域を超えているとまでいうことはできない。

(8) 前記第二の三1(一)(4)クの主張について

この主張に係る事実のうち、西牟田医師が平成七年七月の診断の際に「職場訓練をしても校長が『来ても困る。』と言えば、どうしようもないのであるから従うしかない。」と言っていたことが認められないことは前記説示のとおりであり、平成七年七月の時点において原告を小学校の教諭として復職させるのは適当ではなかったことは前記認定、説示のとおりであるから、仮に原告の主張するとおり復職訓練自体は問題なく終了したとしても、平成七年七月以降も原告を休職としたことが適法かつ適正な手続の下でされた処分とはいえないということはできない。

(9) 前記第二の三1(一)(4)ケの主張について

この主張に係る事実のうち、東京都教育庁人事部管理主事榎本利男、福田恵一校長外五名が平成七年一月二三日原告に「休職願」を提出させるために原告がやけどで入院している警察病院まで押し掛け、原告が提出を拒否すると、実兄まで呼び寄せて署名、捺印を迫ったということができないことは前記説示のとおりであり、本件全証拠に照らしても、校長と対話したテープや担任を外されたときに出された職務内容の予定表、勤務命令、日記帳、歌のテープなどを盗んだのが被告であると認めることはできないのであるから、仮に原告がこの主張に係る理由で被告を依願退職するつもりになったとしても、原告は被告によって依願退職を強いられたということはできない。

(10) 小括

以上によれば、原告が休職するまでの手続の進め方は強引な強要、強制的なものであって、適正な手続に則ったものということはできないのであり、その適正さを著しく欠いた義務違反があるという原告の主張は、それを構成する個々の事実を認めることができないか、認められたとしても、その主張に係る事実だけでは右の原告の主張を認めることはできないのであって、右の原告の主張を採用することはできない。

(三) 原告は、同僚をはじめとする陰湿な嫌がらせによって休職ないし退職を余儀なくされたと主張する。

しかし、原告の主張に係る同僚をはじめとする陰湿な嫌がらせを認めることができないことは前記認定、説示のとおりである。したがって、その余の点について判断するまでもなく、右の主張は採用できない。

二  以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がない。

(裁判官 鈴木正紀)

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